小島のり子南洋伝説(マレーシア演奏ツアー紀行)


2003年3月、マレーシアのジョホールバルにて初の海外ライブを実現させることができました。


このライブが実現したのは、ひとえに、友人GOROちゃんのおかげでした。
そして、何と彼は、ライブレポートを書いてくれました。
長文の傑作です。お読みになる方はじっくり楽しんでいただければ幸いです。
お急ぎの方は、別名で保存して、後で読むことをおすすめいたします。

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私の出身高校は、結構古い校史があって、戦前は府立六中と呼ばれ、一中の日比谷高校からはじまる、いわゆるナンバースクールのひとつで、プライドは教師生徒ともに高く、また昔からの校風を引き継ぐバンカラなところもあったりして、そのバンカラを好む卒業生の間では、昨今のインターネットの普及にともない、歳をとるにつれて交流が盛んになりつつある。

私は当時、バンドを始めようと決意して高校に入ったようなもので、軽音楽同好会なるものに、いち早く飛び込み、ロックとジャズ一筋の青春を、その後大学卒業まで継続することになるのだが、小島のり子は、当時は、ジャズのジャの字も関係ない、暗くて偏狂な演劇少女、および幼い頃から習っていたバイオリンをクラスで勝手に弾きまくる、クラシック少女としての印象しか私は無かったのである。言い換えると、ちょっと変わり者風で、近寄るのも、ちょっとためらわれ、なんせ、少しでも近づくと、唐十郎の話で絡まれたら最後、蛇に睨まれた蛙のように、逃げられなくなるようなオーラというか恐怖感に常に包まれていたのである(大失礼!)。

時代はぶっとんで、すでに平成に突入したある日、10数年ぶりにクラス会などが開催され、のり子(以降は単にのり子)に再会するまで、ジャズフルーティストであるなど、私は申し訳ないのだが、知る由もなかった。それも既にCDを発売してて、都内のライブハウスに出演しまくっていて、おまけにフルートの教則本まで出版しているとは、これは、いきなりパイルドライバーで、脳天を割られたようなショックで、言い換えれば、既に人生の半分を過ぎた年代に達していたにも関わらず、いまだに現役で音楽を続けている、こんな奴がクラスメートにいたのか、という、驚きと嫉妬と羨望であった。

それ以降、それまでは近寄り難かったのり子との交流が始まり、演奏テープを送ってもらって、その感想文を寄稿したりしていたのだが、その間に自分の方にも人生上の劇的な変化があって、日本を飛び出して、海外に居を構えてしまったため、なかなか、実際に本人を目の前にした、ライブを観に行くということが、物理的に出来なくなってしまったのである。逆にそれが、のり子ワールドのイマジネーションとインスピレーションを増殖させ、生で接するより密度の濃いイメージをこっちで勝手に、かつ独断で作り上げることになった一因にもなった。

で、自分も、社会人になってから、一度は完全に捨ててしまったドラムを、17年ぶりにこちらで再開したりしていて、これはのり子に負けるものか、という、勝手な思い込みというか、ある意味では、全く滅茶苦茶な逆恨みともとれるが、きっと、いつの日か、のり子と同じリングで戦うぞ、という気負いがあったのは確かで、これは山下洋輔曰くの、ジャズ=格闘技説に通じるものがあるのかだろう。で、その同じリングで戦う日が遂に、ましてや、こちらマレーシアで実現してしまったのである(自分がそのすべての言いだしっぺが)。

時は2003年3月8日土曜日、場所はマレーシア、マレー半島南端のシンガポールと橋一本で国境を接するジョホールバル。イチローが以前活躍してたオリックスブルーウェーブと同じ経営の、ブルーウェーブホテル20階のラウンジに、その特設リングは設けられた。出演は小島のり子、澁谷盛良、両名を日本から招き、ピアノは、橋の向こう側のシンガポール在住7年、昼間は日系最大手化学会社の取締役、夜は同国ジャズピアニストの5指に入る、ビバップ系ピアニスト塚本周一、ドラムは小生が、正直言って再開したとはいっても、まだまだ経験不足と、実力不足にも関わらず、デカイ顔をして、主催者の特権として堂々と座ってしまった。

対バンは、マレーシアの首都クアラルンプールの邦人音楽サークルJAMAM(JAPANESE AMATUREMUSIC ASSOCIATION OF MALAYSIA、詳細はhttp://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=jamam_kl) より、Hiro's Octetという、スタンダードジャズナンバー専門のジャズバンドそして地元ジョホールバル(以降JB)在住のマレー人と邦人混合の、ラテンバンドSoul Revival。

準備は2ヶ月くらい前から始められ、総責任者として、JB在住の邦人で、ベーシストでありながら、音楽興行会社Sea Way Music Enterpriseを経営する西尾和行氏総指揮のもと、会場との折衝、チケットの販売、地元日本人会と日本領事館との協賛協力等々の準備が進められていったのである。



いよいよ、ライブ当日を前にした3月6日深夜12時、のり子&澁谷盛良(以下盛さん)は、生涯初のシンガポール空港に、興奮と緊張をあわせて降り立った、と書けば格好いいのだが、空港出迎えの小生が到着時間を間違えていて(実は乗ってくる航空会社自体を間違えていた)、彼らに待ちぼうけを喰わせてしまい、加えて、ユナイテッド航空機内では予想外に夜食のサービスがなかったため空腹のふたりは、到着ロビー横のデリーフランスでクロワッサンに喰らいついていたのであった。残念ながら、感動の絵図からはほど遠い。

その半空腹のままの2人を載せたマレーシアナンバーのトヨタは、ジョホール海峡をめざし、シンガポールを北西にひた走ること30分、ようやくシンガポールとマレーシアの国境を隔てるジョホール海峡に辿り着き、橋で国境を渡り、生まれて初めてのユーラシア大陸に足を踏み入れたのである。

その晩は、興奮冷めやらず、お土産のバーボンを半分空けてしまい、2人が起きたのは、翌日はもう昼を回っていた。その日はなにもやることなく、夕食はJBの海峡沿いの海鮮料理店に行き、ひたすら海鮮に舌鼓をうつ。このときに、実は高校の同級にもうひとり、JB在住の田島俊幸君がいるので、ふたりに紹介、当日の会場の手伝いをお願いすることになる。ちなみに彼はマレーシア在14年の、肝いりのマレーシアンジャパニーズで、二人の娘同志は英語で会話をしているような、超格好いい、日系国際人である。



で、ライブ当日になるのだが、やはり起床は昼前くらい、小生は会場の設営があるので、昼には出発したく、まだ眠い盛さんを引き連れて、ホテルに出向く。実は、色々と事情があり、私は総指揮の西尾氏とともに、Hiro’s OctetとSoul Revivalの両方のリズムセクションを担当することになり、都合三バンドすべてのドラマーとなってしまい、この日は各バンドのリハーサルと進行で頭がパニック状態で、実は盛さん、のり子が昼以降、どこで何をしていたのか、知る由もない。

で、リハーサルはつつがなく(色々つつはあったが)終わり、家に戻ってシャワーを浴びて、会場に舞い戻ると、すでに8割の入り、といった感じ。ライブとビュッフェディナーがセットになった企画だったため、多くの人はあちらこちらで食事を取っていた。観客は意図的に宣伝した効果もあって、大半が在住邦人。延べで100人くらいだろうか。

7時開演。シンガポールでFM96,3ハローシンガポールという日本語ラジオ放送局のジェネラルマネージャーのタンバリン斉藤さんに、司会進行をお願いする。


左からストロベリーさん、時子さん、GORO、司会のタンバリン斉藤さん
盛さん(足のみ)、のり子、ヒロさん、塚本さん、リキさん。

一発目はHiro’s Octet。このバンドはヒロさん(Pf)とアッコさん(Vo)という関根夫婦が中心になって、フルートのリキさん、トランペットの時子さん、それから、以前このバンドでギターを弾いていた今井さんという方が、マレーシアから中国の深浅に既に転勤になってしまったにも関わらず、この日のために、なんと深浅からJBにギターを持って駆けつけてくれた。その努力に一同感動感銘、感無量。

選曲はブルームーン、ペーパームーン、フライミーto theムーン、とムーン三連弾で始まり、サマータイム、星に願いを、ルート66と、スタンダードオンパレードでステージを盛り上げる。ペーパームーンなんか、ちょっとかわいい感じの出来に仕上がり、歌詞の情景にマッチしていたようだ。

その余韻覚めやらず、二発目のSoul Revivalが始まる。マレー人のPf,Vo,TpにJB在住邦人のアルトサックスのストロベリー林氏(彼とはもう2年以上一緒に、こことシンガポールを往復しながら、一緒にバンドをやっている)それに、このバンドのリーダー兼プロデューサーである西尾和行(別名女衒ネゴシエーターとも呼ばれる)ベース、塚越ドラムが入り、ラテンスタンダードのエルクンパンチェロ、マンボNo5,ベサメムーチョ、途中でマレー歌謡の大御所Pラムリーのナンバーをさらっとやったあと、思い出のサンフランシスコから、ハロードーリー、アイラブパリ、とスイングし、トドメはボーカリストが思いっきり照れながら、多くの邦人を前にスキヤキ(上を向いて歩こう)を日本語で歌ってしまう。実はこのボーカリスト、以前はマレーシアのなんと校長先生で、定年後趣味であちらこちらの催し物に呼ばれては、スタンダードを歌っているという人。途中で、招待したマレーシア観光局の局長の挨拶が入り、ことしはJBの観光年ということで、こういう軽音楽を是非観光の目玉にしたいとのこと。早速5月のカーニバルでの演奏要請が、後日入ってきた。

そして、メインイベントの小島のり子カルテット登場。実を言うと小生歳のせいか、興奮しすぎたせいか、一バンド目ですでに、左足脹脛に違和感がはしり、要は攣ってしまい、ハイハットが踏めない状態にあって、二バンド目では内股の筋まで攣ってしまい、情けないかな、三バンド目は、呼吸も危うい、と言う事態だったのだが、そんなこと死んでも口には出来ぬ、もとい、ステージで死ねれば本望だ、などとくだらないことを考えてる余裕もなく、いきなり一曲目のスタンダードAll the things you areが始まってしまった。始まったら最後、もうとまらぬ性格、バックからのり子のすべてを包んでやるぞ、違ったここはリング上だから、どんな技が来たって、かわしてやるぞ、と気持ちだけは張り切り、二曲目のオリジナルVega, モンクの I mean you, CDタイトルの It might as well be spring とフレディハバードのUp Jumped Spring と春物二本立て、 オリジナルのGet Buddy,そしてDi mana、と一気に走りまくってしまった。
リハの控え目なやり方とは一転して、のり子は変幻自在、ステージの上で吹きまくる。いや、踊りまくるというのが正しい表現法だ。それも丸台のテーブルで。一歩照明を間違えたらストリップ劇場そのままの状況も可能になるのだが、加えて自分はPAの事情でフルートの音はあまり聴こえず、でも丸台の上で華麗に踊りまくる、美しいダンサーが自分の前にいるなあ、と、演奏中に後ろから見た、彼女の感想はそれがすべて。とても相手の繰り出す技に応酬してゆく余裕などなかった。

かたや、盛さんは、何があっても、全く動じず、全く動揺せず、黙々とベースラインを刻む。その正確なビートは、空気の中に、スイングの橋を作るための杭を打ち込んでいるようで、実に小気味よく、また、杭は出すぎず、共演者としても、聴く側にしても、こんなに気持ちの良いベーシストは初めてお目にかかった、ということが、左足のみならず、右足まで麻痺がきていた小生の朦朧とした意識の中にも感じ取れた。この人はきっとハルマゲドンがこようが、ノドンミサイルが打ち込まれようが、絶対にぶれずに安定したベースを最期まで刻み続けるだろう。

もうひとりの塚本氏とは、すでに結構長い付き合いになるので彼の出してくる得意技は、大体知り尽くしている。安定した、塚本バップ節が弾き溢れる。

で、気が付いたら、最後のナンバーの、椰子の実スペシャル。この、のり子の十八番のナンバーをここでやるというのは、のり子としても自分としても、結構強い思いいれがあって、「遠く誰も知らない南の島から流れ着いた椰子の実」という島崎藤村の詞があってのこの曲ゆえに、この南の島というのは何処なのか、結構引っ掛かるところがあって実は曲が作られた時代には、全く無名で何も無かったジョホールバルの、それもブルーウェーブホテルの目の前の海峡が、実は日本に流れ着いた椰子の実の原産地なのだ、という解釈を、私が勝手につけてしまい(厳密に言うとここは島ではなく半島なのだが、まあいいか)、この曲を、原曲作曲以来60年だか70年ぶりに本家の”椰子の「木」”にお返しをする、という目的で、今回のライブが決まったのである(なんという、強引なこじつけだろう)。だから、何があっても、この曲は外せず、かつ成功させずにはいられない。と感銘にふける間もなく、マイペースの盛さんのベースが既にイントロを始めている。途中のフルートソロが終わったあとで、心なしか、のり子の目が、感動でうっすらと濡れているような気がする。これこそ、ゲットバディを成し得た者にしかわからない、アンサンブルの極意のナチュラルハイなんだなあ、とか感銘に浸る間もなく、ドラムソロに入って、あっという間に終わってしまった。


なんか、燃え尽きるには至ってないなあ、とか思いながら、その反面下半身は半身不随から全身不随に近くなってきていて、ドラムのリズムの切れが悪いのは自分でも良く分かり、まあこれが自分の実力なんだろうけど、とか反省している間もなく、出演者総動員で、枯葉とサテンドールをセッションして、ライブは、心理的には、あっけなく終わってしまった。肉体的にはハードだったことが、翌日以降、果てしの無い筋肉痛との戦いで証明されたが。


でも、予想以上の多くの観客に恵まれ、それも、この地ゆえ、普段から音楽の生演奏に接する機会がごく限られてることもあり、たくさんの人から、素晴らしい演奏だったと、後日聞かされるにつけて、やってよかったなあ、もしかしたら、今回の公演は成功だったのかもしれないと、しっくりと感じてこられるようになったのである。

で、余韻にふけりながら、その日は暮れてゆく、とは程遠く、現実は楽器片付けという、バンドマンとは切っても切れない、特に演奏後にはとてつもない重労働が待っており、一式全部終わって、打ち上げに辿り着いたのは12時半を回っていた。そのまま、おいしい酒を飲んで、いつ寝たのか、記憶がない。


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